日本語の文章には、いくつもの教えふくむ文が、歴史のながれで残されています。
とりわけ、役立つものは、自分のポリシーとさえ示した文として、わかりやすく座右の銘などでもお使いのものもあるかと存じます。
そのなかで、一期一会の意図が総合的な解釈を持って深く判断基準になさっている人は、素晴らしいでしかございません。そここそが、平等さと、たいせつな意図や、平和な心の精神を重んじている意味を表現とさえした学としている姿勢だからです。
また、寝て待つ回路の日和あり、という文においても、あせらず気を豊かさにみいだしましょうというような解釈すら含まれてもいるのですから、絶え間なく続くことに急がずなかれをもふまえて、ながれを迎えてゆくゆとりを持つしあわせを解釈に迎えることができたなら、あなたは、豊かさの自分らしさを手にもできたと言えます。
感謝の意味を総合的な反応ふまえて見ても知れるように、総合的な意図は、感激すらふるえる次元にてあわせ持つ気持ちを礼儀という気質ふくめての感じたなかで体得したことを、感謝に気持ちが至りましたという自分です。
かならずを持って生きる過程においては、自分勝手な不貞を働かせて生きていては駄目にしかならない。それがハートのなかに、いけないことを良しとして生きたなら、体罰ではない感動した意味ふくめた習わしをきちんと自分に添えて生きていかなければだめでしかありません。それができてはじめて人に対しても、よい人物と言えるでしょう。
本当なる人物には、人材があたふたすることなく、支えをとおした分かちあいの事実携えて、流れを嬉しい話にさえ自愛の兼ね合うなかで、対等さを定義に語れたり、平等を軸にした話ができたりするでしょう。あたたかい流れのなかには、わからない人は誰ひとりいないものです。
ひどい人物は、ひどいでしかないオーラによって、見るからに非道を生きている様を世間にも分かる時代に、これからはそうなるでしょう。
文明は、開発の一途。それがすでに宇宙にまつわる仕事をなさっている人たちの流れには組み込まれたシナリオにて開発はされ続けてはいます。しかし、あたたかさまでの文明こそ、まだまだ自覚ない人物がほとんどという哀れな日本においては、自活さえ持てない意味不明な不貞な人によって、まだまだ先進国には到達できない流れが続きます。
これが、現在の非道多い日本でしょう。あからさまながらを誰も見てないから、それでよい、では駄目だということを知るほかない。エコロジカルの定義における分かち合う精神を携えてもない卑怯な人には、それが未来になるでしょう。
卑怯な人は、卑劣でしょう。ひどいはどっち?
これは幼い小学生でもわかる次元という愚か度ですね。
それが、雨あられとなればまだ良いですが、雨嵐をもたらすのだとしたら、それは多勢が解決にはいる流れとなりもします。
それが、群衆での意味です。
群衆は、民衆よりはるかに逞しい尊厳を通した事実を定義にするからです。
だれもがそうする、それのみがエコロジカルの意味。解釈できない事態はなんとも悲しい知性でしょう。
2024/05/24 茉莉愛