[人が分かち合うを喜びに迎えられた]

人という人は、だれもが喜びと分かち合う気持ちを通した繋がりを、共鳴とした命の流れに、たえずもたらしたいと、そう願います。

それがたとえ、たかだかとすらいう次元だとしても、だれもが、たおやかなる波動エネルギーを持つ方との話(わ)を輪(わ)とした時間になるように、未来へのプラスに必ずなるように願い、それが無意識という意識のなかであったとしても、人はかならず自らにとって誉れにしかならない選択を、かならず致します。

そのうえでそこには必ず、思いやりのハートが存在もしています。

自分への思いやりだったり、相手もふまえての思いやりという気づかいだったり。いずれにしても、良かったにしかならない未来をだれもが潜在意識のなかで選択をし、フォーカスをポイントとして自分の行き方を磨いてゆきます。

それが、エコロジカル理論と重なると、さらにパーフェクトでしかなく、その螺旋階段によっての意識からの自然な選択が、マインドと一致してゆけばゆくほど人は共鳴と共感を、多くの方々とー平和ーというワードをとおした未来へと、人生のみならず、地球への貢献さえ見い出せる活動にもなれるように、自分を高めながら、時差選択を繰り返し、時をとおしての分かち愛となるように、祈りをまっとうして生きます。

その様子そのものが、だれもが生まれながらに持っている仁愛精神での愛で、そこがダイナミックに太さをエンジョイできるまでにもなってくると、想像以上の自分に出逢えたり、想像していた人生よりもはるか先をも示唆したフォーカスによって、あきらめない自分への強くやわらかいハートを持った本来の自分。がんばり違いをしなくてよい柔らかい自分へと、憂いを引きあわせる人生へと、自分だけが知ってもいた真実の自分物語の人生へと、運命のあゆみを推し進めることが叶えられても行けます。

しかしなぜ人は、時に、あくせくとした時間を必要としたがるのでしょうか。

流れという自分への采配への問いかけが、日毎それを学びたいエネルギーへと、フォーカスをつくり続けはいたしますが、必要な力みと、そう判断しては愚かであるという勘違い必要という力みというものを、自らに欲しがる方々も時に拝見致します。

でも、それをもが、人生と言ってしまえば諸刃の刃。基準は必ずあるからです。

それが、一般的に、という社会基準であり、誰もがそうしますか?という平等という人としての差別ない人格かどうかさえ、自らのアウトプットでは、耳と目と身体感覚をとおして自分に問う仕組みが人にはあります。

それが、実際に、他人様に向けたノンエコロジーであったとしても、そもそも細胞すべては脳とハートできいてもいる訳ですし、細胞という細胞は、記憶をシナプスすべてをとおして結果をどれだけ時間がかかろうとも、人生を紡ぐ日々のなかでは答えをもたらし続けます。

わたくしは、かつて、愛を共感できた人との時間のなかで、苦しみ抜いた経験があります。
しかもそれは、自分の選択をどう向き合う形を変えたりしても、どうがんばりきっても、相手がそのピンの根源に対しての考え方の矛先を、知り尽くさなければ無理、という…そういった事柄でもあったために、愛のなかでこそ頑張って、なんとかしたくても、この私にも無理という事があるという次元を知る体験を、その方との時間のなかで、悔しさと共に経験しています。

つまり、これがわたしが自分を磨きつづけ、世の中の貢献となるようにと予防医療の最前線をもドクターと仲良くさせていただいてきた日々のなかで、精神の世界を学ぶことこそが、慈しみと平和な世の中へのひとりとさえなれる切符。そう判断できた選択肢をもたらしてくださったマインドフルネスの日本一と言われた団体の先生方やさまざまなお知恵を授けてもくださった恩師の方ふくめ、だからこその今というかけがえのない時という時代を交差する自分への未来へとつながりが繋がりを引き寄せてゆき、わたしの人生は私がどうこうすることなく、うながされ続けての今時間という宿命と天命を手にさせられてしまった自分を、すべてのいのちからなる祈りに変えて、日々あゆむ人生道。タオなる世界。

一言でいうとそれは、喜びとは当人である私としては、望みもしていなかったのですから、だれか頼むから殺してくださる方はいないかとさえ、毎秒願いもするのが、本音でもあります。しかし、それをもが奪われてもいるのも知ってもいて、私は生かされて行かされ活かされることのみが、どうまわりがあったとしても、人の選択は自由でしかなく、それにおいてを神秘なる神々のエネルギーは、宇宙の波動においての愛とともにの意味をもって、運ぶのみですから、そこをもが語れるという次元の魂を通しての、叱咤激励という応援しかわたしには与えてられてもない口であり、手であり、脳内であり、役立つしかない人間でしかないという肉体の意味を、わたしは身をもってまた自らを証明さえしなければいけないという壮大以上でしかない真実。

たとえ私が無言という状態であったとしても、人とは違い、常に脳内では未来が語られ続けており、かつ、命への学びにおいてがある限りのケースにおいては、かつてのように前もっては伝えてさしあげることは一切できなくて、わたしは未来をつくるのみという生き様でしか意味をもってもない上で、自分自身の未来は、定義のなかで委ねしか与えられてなく、愛のみを頼りに生きらされていて、愛の反対がもたらす地獄、生き地獄。それをも語れるまでを、僧侶ではないものの、肉体すべてを提供しきっている魂のみの肉体。それでもわたしは、人としても生きていて、それでも私は人間でしかない。

助けてとは口にできなくて、言いたいことは一言も発言できなくて、神秘とは、神々とはでしかない話の日々。わたしの知らない事を私が使ったことのない言語でも語れ、声さえもが自在に違い、かつての私が生きた証が、それを知る方々によっては証明だれかがしてくださる事のみが頼りでもあり祈りでもございます。

そんな毎日を通しての嬉しいことは、まだまだ愛の数秘がバランスとれない中で、笑顔がかつてのように本心からできるような時間を迎えてはいませんが、それでも喜びと希望、わたしの生きている意味を知らせとしてくれるのは、毎日支えをくださる方々の言葉とメッセージです。

すべてを到達した未来とは

まだ見えないなかだとしても、人には希望もあり、チャンスが毎瞬おとずれてもいます。

だからこそ、しあわせしかないのが、人。

苦楽をともに愛しみ(いつくしみ)合える、枠ない人間関係という羽ばたきは、これからの導きとなる人であればのテーマ。

やすらぐ関係を超えた人としての分かちあえる信頼感。

自分らしいリズムがベースとなった日々を人生として、豊かさというステージを高めることを喜びにハートを育ててくださいね。

2024/04/21 記

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