完全を守る発達精神未熟さん

精神が未熟な人は、完全にを意識しながら生きています。
ド真面目さんともいう次元で、自分なりに意識した完全さを、とても丁寧にやろうとなさります。

つまり、きちんとした振る舞いをカッチコチ的な動きで、やっている…というと、わかりやすいでしょう。

たとえば、新幹線では、大半の方が座りやすいように椅子を調整します。けれども、精神的に落ち着く感覚が生まれてくるまでは、ほかのことで基本的に手一杯に脳内がなるのですから、ゆとりが自分に少しずつ出てくるまでは気が抜けないため、椅子も倒せなかったり、足をも崩すまでに時間を必要とさえいたします。そんな風にしながらも、ゆとりがまだある次元の人は、自分がどんな風にいると良いかを学んでいたりするので、手持ちぶたさにならないように、飴を食べながら携帯を手に動画を見ながら景色を見たりして、自分が落ち着くスタイルをとりながら、ゆったりした感覚が自分にもたらされるまでそんな風にしながら過ごされたりいたします。

この完全を守る次元が、それ以外でもすべてにおいてあれば良いのですが、発達精神未熟感があらわに自覚するまでの間で、親から言われた体験があるものにおいては、やり遂げたりを自然とできたりもするのですが、体験ができてないものにおいては、臨機応変という部分が欠落さえしてもいるので、中途半端さをあからさまにすることもあります。

たとえば、自分にとって都合のよい事においては、進んでさえするのですが、一方では、御都合主義な所も併せ持ってもいるので、たいていの人が手を差し伸べようとすることにおいて、相手の気持ちよりも自分を優先したりも致します。
頼み事ひとつを、気分でおざなりにもできるのも特徴と言えるでしょう。

発達精神未熟さんは、生きてきたなかで、何らかの形で、まともな大人らしい人に会えてなかったり、また、そのような人に会えていたとしても、マザコンやファザコンがあれば、良い人の見分けがつかないので、学びのポイントもわからないとさえ言えるでしょう。

人から学び、人をとおして成長することが人であるということ自体をわかってないのですから、致し方ないともいえも致します。

では、そのような人が、学ぶをわかるようになるには、どのようにすると良いのでしょう。

そこが、自分から〈潔さ〉という部分を知る体験を自分で自身にもたらすほかないのが事実です。
なぜなら、自力でしか学ぶことができないからです。

マインドフルネスの学習のなかでは、自分の軸を確立させることが必然的となってもいます。このあたららはNLPでいうならば、前提のなかに含まれてもいます。

解釈はすべてにおいて、和と輪と話を持って分かち合う精神と思いやりの心を磨くことが、人としての道だという意味でしかありません。

そういった意味では、どの賢者をもが同じことを語り、世を超えてなお聖者がつたえてもきた話でもあるでしょう。

人の姿勢は人の未来をつくります。

あなたはこの世界をとおして、どのような意味を公表しながらいのちとして生きる存在意義をアウトプットなさるでしょうか。

それが、事実なる、唯一無二という自分であるということを、どうか忘れないでくださいね。

2024/05/27 茉莉愛

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