[泣かない仕組みと泣けない姿勢]

あなたはこれまで、人生で、何度じぶんの為の涙というものを、丁寧に見たことが、あるでしょうか。

人はだれもが、自分にとっての悲しみや、自分にとっての儚さにおいて、涙というものさしを持っています。けれども、まだまだ自分は◯◯だ…とか、まだまだ自分にはふさわしくはない…など、そういったこととはちがう潜在意識の悲しみという姿勢からの、自愛とも、わだかまりとも違う、経験から学んだりはしたからこその、できないという姿勢が、少なからず人には有りもいたします。

それは、ではなぜ、涙にはならないのでしょうか。

必ずといって、必ずやという気持ちは誰もが持ってはいるものです。しかし、無理だと教えられてきていたり、無理だからこそ夢を見るのではない等と、はやい段階から親などから、夢をみることや、夢物語でしかないということを教えとして植え付けられるようにして、教えにすらなるように、潜在意識に刷り込まれた流れが人生にもたらされたとしたら、そのはじまりは、だれもが、「叶わないことは口にもするな」というような仕組みを、あたかも正しい基準であるかのようにさえ、自愛を阻むかのごとく、子供のうちからあえての教えとして、言い聞かされたりもいたします。

では、なぜ、そのような話をあたかも正しいとして語り継がされてゆくのでしょうか。

そこが、疑問でしかありません。

なぜならば、必ずという物語は、誰もにチャンスを見分ける力を与えてくれたり、頑張れば力が添えられて、尚且つ、手助けしてくださる方には巡り合うチャンスや機会というものは、引き寄せられてもいくからです。

だからこそ、頑張るという気持ちが絶え間なく自分という人間に、力をパワフルに与えてもくれますし、だからこそ人への接し方にも幅を学ぶことも出来たりもし、叶うことへの気持ちからのハートが得た学びから、感謝という次元を自らでもって学ぶことも出来るのですから、流れをむやみやたらに他人である親が、親だからという不明でしかないたかだかの肩書き、ポジションによって、他人である自分の遺伝子のみでしかない人材となった子供に対して、あーだこーだいう権利はもうとうないこと。してはいけない事であるという次元を、きちんとわからなければなりません。

そもそも、他人に関して、余計なことは発言さえしてはいけないことを、正しく「余計な基準」を学んでなければ、出来ませんね。でなければ、基準わからないくせに偉そうに。何様なのか。という不明な基準からでしか、偉そうにさえ分からないままに、人に対して、あたかも自分は正論を発言としているのだと、それこそ何様?という視点にて、発言を平気で態度さえもを、訝しくも人様にもたらしてしまいます。

たかだかにさえ、目くじらを立てるのが、この、自信ない姿勢からうまれもたらされる『何様さ』なのです。

人は、人からでしか、学べない。

この自愛なる判断基準さえもが、忘却されたままに、自己中的に申し立てのみしてくるようでは、人の外見していても、おたくは何様?でしかないのです。

外見とは、自分を自己紹介しているにすぎず、たかだかにさえ目くじらを立てている様子では、まだまだ魂は学びすら、はじめていないおぼことすらなります。

だからこそ、顕在意識と健在意識、そして潜在意識の流れによる自愛の学びは、常々で起こるわけですから、学びながら生きて死ぬという到達してゆく意味の深さを、はやくから意識下には持つ事がだいじでしょう。

いずれ、は、いずれにせよでしかないのですから。

涙には、いくつもの種類があります。涙を流しているからと、正しい矛先が添えられているのであれば、それは学びにしかなりません。

基準は、基準です。
そのうえで、ワガママさを含む身勝手でしかない発言や、幅をもたない選択を与えてしまう物言いに関しては、馬鹿でしかないと言えるわけです。

だからこそ、矛先は、どこに向けられている発言であるかどうかが、見極めることが、受ける発言を与えられる側には、判断する力を持つ必要がありもします。

この、受ける側というエネルギーに関しても、受ける側には、どれだけもエネルギーをつよく持ってなければ、肉体はやられます。

つまり、発言する側よりも、聞く側が、それ以上にエネルギーを持ってなければ、まともな会話にはけしてなりゆきません。

発言する側は、まともに発言とした意味を持つならば、かなりの気遣いができているからこその、目上から話すが叶えられてもいるのです。

だからこそ、エコロジカル。
自愛も慈愛も地球への愛すら分かりきる次元でなければ、他人への物言いは、なかなかでしかありません。

そのうえで、刺激になるような話し方は言語道断でしかありませんし、他人がどうこうではない話し方が、導かれるかの如く出来てから、はじめて人のうえに立てもできる地位と名誉なるポジションある人と言えます。

だれがどうして、人を傷つける権利をどこに持つことが、どうして出来るというのでしょうか。

人は様々な、考え方をしたりしますが、はてそれは正しいという次元かどうかを、見分けられなければ、大人とした姿勢がまだ見つけられてないとしか申せません。

大人な基準は、判断を和を持ってすることでしか、ないからです。

ありのままを、ぶつけたり、ありのままを自分に通さず、受け入れて解釈してのアウトプットにできないのであれば、当然ながら、知性と知能が、発達未熟でしかないとしか申せません。

ゆえに、大人になる意味は、自分への涙というものを、わかるようになってはじめて大人であると言えるでしょう。

自然から教わる意味ふまえて

たくましいという魂に、どうか優しい波動から学んでいただきたく願います。

2024/05/05

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