競争心とは、だれの為でなく、自分にとって良かったとしかならない結果を迎えるために存在しています。
そのうえで、相手とするのは、つまり戦いとした競う相手とは、自らという己というのも、まともな勉強をテーマとして道徳心でなさってこられた方においては、ご存知の通りでございます。
しかしなぜ人は、闘う闘争心が必要なのでしょうか。
そもそも、そこが、たくましさを磨くためのエネルギーの根源さえ学習する事にもなっており、ほかでもない自分自身の1分先の未来を勝者とすることでもって、自分への信頼を得ることにさえなってもいます。
それくらい、どれだけ、自分自身と対比を常にしてきたか。
それが、大人としてのバロメーターを築くシナリオにもなってもいますし、役立つ情報提供にも、人として年齢を重ねてから外見にも醸し出される在り方にも、体験としての知り得た事柄は、人様への礼儀作法すら学べる仕組みにも、闘争心はどこまでもを語る火種にさえなってます。
一言では語れない
これが言えたなら、闘ってきた証でしかない精神年齢を表す目力にさえなってもいます。
その意味も含めて、自愛がどうしても自らを見るように、また自らを毎回タイミングで振り返ることができるように、当事者のみならず、まわりにもたらすこの頑張り抜く力は、すさまじいものでしかありません。
はじめてばかり。
これが人生。
だからこそ、ゆるいステップのペースくらいで心臓を動かしつづけた方が、現代社会はたいせつに人生を歩めているとも言えるでしょうか。
人には、人としてのかなり深い部分に、眠らされたかのような、魂の叫びという目には見えない形としては見れない、けれど存在はしている魂が言いたいとした訴えがだれにも在ります。
それをもが、闘争心のみならず、頑張ろうとする課題と共にある愛のプレリュード。
頑張り過ぎてもよい日々は、頑張れば良いですし、逆に頑張りほどほどの省エネモードな自分でのファイトなるプランニングの頑張りは、必要でしかないプロセスでもあるので、
それをも含めて、自分らしくステップに足をあわせてあゆむことは、事実、先々においての年齢を重ねると充分だという判断力も、その流れで習得となり、「良かったね」となりますね。
人それぞれ。この意味ふまえて、各自どのようにした「がんばる」というステージを自らに捉える意味とするか。そこすらも、人それぞれ。
価値基準というクライテリアをもが左右する内容とも言えるでしょう。
「頑張って」という言葉の使い方もが、出来てない日本人がどれだけもいるということ。
「ありがとう」が言えない日本人がどれだけも多くなっているということ。
「ごめんなさい」「すみません」をもが使い方知らない人も多い意味をもふまえて、努力する意図と優しいハートの育て方は、背中合わせのついになってもいることが、人として大切なことを学ぶ人生のプロセスでしかないため、それぞれの方々にはどうぞ学習の分野の教養を日々学んで生きていただきたく願っています。
人は他人様から、学ばせていただくほかないのですからね。