人というものさしを、あなたは、どのように解釈なさっていますか?
このような課題を、もし聞かれたとしたら、あなたはどう語るでしょうか。
人という人は、誰もが1人きりでは生きてはいけません。
なぜなら、「人」という文字からも分かる通りで、支えあいあって成り立つのが、事実でしかないからです。
そのうえで、自分が自覚できた者同士であれば、類は類の意味合いからも、たくましく、また、たおやかにお互いを信頼を持った誠心誠意という優しい関係にて、互いを慈しみあえる間柄でのみ、支えあいの人生を共にあゆむことが出来て、生きるを叶えることができます。
そのうえで、人はだれもが、人生をあゆむ流れによって、少しだとしても、わだかまりを持ってもいたりするのも、往々にしてある人らしさでもございます。
しかし、そのわだかまりというステージは、人生からなる学びを持っている、いわば個々のいのちの課題でもあり、誰もにとってよい選択が日々の暮らしの流れでの修得した人としての在り方から、自分らしさを深めることで、仁愛精神のみで生まれた誕生から、少しずつ自分を通して自愛から慈愛まで、学びきる形こそが、死を持って分かち合うという、『正しい生き方叶えた』生き道です。
そのうえで、学びながらにして学びあう愛の時間は、華々しくはけっしてなく、それでもってだからこそ愛でもあり、涙があってはじめて自分の深まりに感動ができ、感謝が身に染みてわかるとなれもするものです。
しかし、どうにもならない事として、なぜか必ずの形で、泣いていたり、なぜか必ずの形で、威張っていたり、なぜか必ずの結果では、人をひとりの自分の鏡であることすら忘れてしまい、罵倒はするは怒りをぶつけあげるは、挙句に徒党を組んでまでネグレストのドメスティックバイオレンスを、意味さえ、これぞそれだとすらわからない知性未熟さを盾にして、自分の様子がおかしい事、可笑しな姿を見えてないままに、前進しようとしてしまうひとときを、なぜ故に人は愚かにもしてみたりするのでしょうか。
それが、残念でしかない『フォーカスの思い込み』です。
このフォーカスの思い込みとは、いわゆるビリーフです。
きっとこうだ!とか、ぜったいこうに決まってる!など、自分の杓子定規しかない中で、敵対心のみを自分の軸にしてしまい、あげく偉そうにしかない問題発言を、してしまうという愚かでしかない運命を、当事者は迎えていくのが、流れというものさしです。
つまり本来、人は、生まれた時に持っている愛は、仁愛精神のみです。それからが、ナルシストの自己愛を学び、それから自愛、慈愛、地愛へと、導きという優しい人たち、自立をポジティブに迎えて自活している人たち。そのような人にたくさんお会いするチャンスを自身にもたらす事を、叶えながら人は、人らしさを学んで生きていけます。
それが、センターなるハートを磨けるというスケールでしかなく、でなければ、不遇のステージの繰り返しという連鎖を自分が自分にもたらす他ない日々を、喜びさえ感じながらきみ悪いさえ知らぬとした姿勢で、誰からも支えていただける発言や注意さえもらえないままに、あたかもさもなる自分を、間違いエネルギーに乗っ取られたことすらわからないままに、ネガティヴな依存やネガティヴな自立的他人を利用さえしてしまう依頼あたかもすら、やり遂げてしまう不貞さな自分磨き身勝手ですがを、歩まざるを得ない人生時間を堪能し始めてしまいます。
されど、どなたかに優しくされる事や、だれかに親身になって正しく未来を見据えていただける法則を教わるチャンスやきっかけとなる言葉を素直に聴けたりできたなら、そこからはチャレンジの連続がもたらされはしますが、それでもだからこそで、安心と自分への信頼が、自信を構築してもいくので、未来はチャンスが与えられ、導きはしあわせという階段を確実に知ってゆけるようにさえなりもします。
だからこそ、わだかまりは、一ミクロも無駄ではないですし、だからこそ磨くことと、憂いなるハートが精神を高めてゆけるので、愛するが分かるようにもなります。
そこがあっての、愛あるひとりの人間になれます。
人ひとりの有り難さ、これが尊しとなれたならば、あなたは人といえるでしょうか。
人は、どこからでも、いつからでも、改めて気付くが大切です。
それであれば、あなたは更なる自分に選択肢を豊かにもたらすことが出来ます。
人生は、豊かにしかもたらされない。
そこをどのように堪能していのちに迎えながら、たのしいを磨き上げるかが、近年の流れだからこそで、日本人の方々は、特にで学び尽くしていただきたく願う題材課題です。
人は、優しい。
そこがさりげなさでにじみ出るまでになられたら。
譲りあい助けあいの愛のバランスも、自愛と慈愛にもたらしてあげることもできるでしょう。
はじめての日ばかりが、人生。
だから、「善い」と言うものが、あるのです。
茉莉愛